本日は冬至です。
『陰』極まり、そして『陽』に転じる。まだまだこれから寒くなるのに、陽が長くなり始めます。なので新年と捉える風習もあるようです。今日温泉に行ったら露天風呂に柚子を入れてありました。ほんのり柚子の香りのする温泉でじっくり温まって来ました。冬の露天風呂は外気が寒いので良いですね。年中温泉に行きますが、冬に入るのが一番好きかも知れません。
と言う前置きはさておき、近況報告を兼ねてこのブログを書いております。
実は今年の8月に、実家(大牟田市)に一人暮らししていた母親が熱中症で倒れて救急搬送され、入院しました。倒れていた母を発見したのは私です。お盆を実家で母と過ごした後、博多に戻って、母から頼まれた郵便物を投函したのでLINEで知らせたのですが、返事もなく、既読にもなりません。まあ1日くらいは返事がないこともあるので、一日様子を見ましたが、翌日の夜になっても返事がなく、電話をしても返事なし。耳が遠いので、気づかないだけかな?とも思いましたが、だんだん不安になり、翌朝実家に行ってみると、玄関は開いてて、テレビも点いてて、あれいるんじゃん?と声を出して探しましたが、全然見当たりません。縁側の方へ回った時に、そこに倒れてる母を発見しました。もう心臓が止まるかと思いました。声を掛けたら、反応があったので、ホッとしましたが、頬や肘、膝、くるぶしに擦り傷があり、転倒した形跡がありました。家の中まで抱き抱え、水を飲ませましたが、衰弱し切った様子に怖くなって、救急車を呼び、病院へ搬送しました。救急担当の先生から、熱中症で脱水症状も酷いので、発見がお昼過ぎてたら危なかったと聞かされました。そしてそのまま入院となりました。入院手続き等を終え、実家に戻り、食べ物等腐りそうなものを処分したり簡単に片付けしつつ、妹と隣町に住んでいる叔父にも連絡をし、入院までの経緯を伝えました。
倒れているのを発見した時は本当びっくりしましたが、間に合って良かったと心底感じました。実は翌日からタイに旅行に行く予定で、もし実家に確認に彼らず、そのままタイに行っていたら、と思うとゾッとします。もちろんタイ旅行はキャンセルし、実家に少し滞在して片付けや入院に必要なものを買い足したりしていました。
入院して最初の10日間は点滴をしていましたが、点滴も終わる頃には普通に食事もできるようになり、車椅子で移動できるまで回復しました。食欲はあったのが良かったのだと思います。容態も回復して来たと感じたので、博多に戻り、週一くらい面会に行っていました。そのついでに実家の空気を入れ替えたり、庭の草むしりをしたりしていました。
まだまだコロナの影響なのか、病院では入館時に手指の消毒、マスク着用は必須です。面会も予約制、一回に4名までというルールがありました。面会は休憩スペース的な場所で母は車椅子に乗ったまま話をしました。耳が遠いので、こちらからは筆談で、母も自分の声が聞こえないせいか、ちゃんと発音してくれず、ほぼ聞き取れないので、母も自分の言いたいことを筆談するという感じのやり取りをしていました。
9月に入って、9月2日は母の誕生日でした。なんと先日亡くなったRonと同じ誕生日です。食べ物の差し入れはNGなので、バースデーカードを作って持って行きました。
面会に行くと、なぜかナースステーションの中に車椅子の母がいることが度々ありました。コミュニケーションは難しくても、誰かと話したいんだな〜と思いました。看護師さん達も忙しそうですが、みなさん親切な方々ばかりで良い病院に入院させてもらったな、とつくづく感じました。
ただ病院は3ヶ月で退院しなければいけないルールがあるらしく、母の退院先の件で病院の担当者の方と面談することになりました。病院側の見解では自宅での一人暮らしは今の状態では無理なので、老人ホーム等の施設に入居も検討して下さい、とのことでした。先ずは本人に確認しようと、母に聞いたら、家に帰りたいが、一人では不安だという答えでした。だったら施設でも良いかな?って聞いたら、頷いてくれました。最初は自分が同居しようと思いましたが、同居しても24時間自分一人で面倒を見ることは不可能なので、やはり施設が一番現実的な選択だと言うことでした。
病院から同じ市内、隣町の特養やその他の施設のリストをもらい、いくつか連絡して施設を見学しました。今回の件で介護認定を申請して要介護3になったので、特養に申し込みましたが、満室のため、空室待ちとしての申し込みになりました。ただ退院日は決まっているので、特養があくまで入居出来るショートステイ施設に入れるよう、病院の担当者と特養の担当者が話し合ってくれることになりました。
そんなやり取りをしていた時、担当医から連絡がありました。「お母さんの身体機能が大分衰えてきたので、面会をしたい家族、親戚は早めに面会してもらって下さい」、老衰の症状だと言うことでした。早速妹、叔父、叔母達にそのことを伝え、私も実家に寝泊まりして毎日面会に行けるようにしました。妹もハワイから駆けつけてくれました。叔母達も東京、奈良から、姪達も母の面会に駆けつけました。その頃から呼吸器機能も低下し、酸素吸入が始まり、点滴も再開しました。車椅子に乗ることも出来なくなり、寝たきりの状態です。もしかして、本当に!と担当医の言葉を思い出し、不安になりました。
叔母達も1週間くらい居てくれました。妹も出来るだけ実家に居て、一緒に面会に行きましたが、帰国日が迫り、一旦帰国しました。
施設への入居をコーディネイトしてくれていた病院の担当者から、「酸素吸入器が必要だと申し込んだ特養には入れせん」、とのこと。運よく同じ特養内のショートステイ施設に入居できそうだったそうですが、仕方ありません。
それでも退院日は決まっているので、その病院にいることは出来ず、次の病院に転院することになりました。候補の病院が二つありましたが、実家から近い病院でお願いしました。
11月8日、新しい病院に転院しました。新しい病院の担当看護師さんからは、「容態は少し経てば落ち着きますよ」、と前の病院とは違った見解を伝えられ、あんな深刻だって言われたのに?って思いましたが、心配いらないのに越した事はないから、ホッとしました。
そしたら数時間後にその看護師さんから電話が来て、「前言撤回します!先程検査したら、前の先生が言っていたのが正しいです。いつ急変してもおかしくないです!」と。そんな〜!と喜んだのも束の間でした。
一旦ハワイに戻った妹は、また直ぐにでも再帰国出来るよう、仕事を休むために職場で仕事を振り分けしていたようですが、最初の看護師さんの見解(時期に安定する)を伝えて、今はそんなに緊急性はないようだよと伝えました。しかし直ぐに看護師さんから聞いた正しい母の状態を伝えました。妹はどっちにしても仕事の割り振りは完了して休める事になったのでチケットも取ったとの返事がありました。さすがアクションが早い!今回はOne Wayだけのチケットで帰りは母の容態次第だってことも上司に伝えたとのことでした。
それからも基本毎日面会に行きました。妹が来てからは殆ど実家暮らしです。車がないと買い物も不便なので実家で妹と二人暮らし状態です。たまに姪(妹の次女)宅に妹が行くと一人になったり、自分も仕事や他の用事で博多に戻らなきゃいけない日もありましたが、実家で生活し面会に行くのが普通になっていました。妹は早く就寝し、早朝起きてはハワイの同僚とメールでやり取りしたり、しっかりリモートで仕事していていました。とても責任感あり頭が下がります。
この年になってお互い別々の生活していて、まして違う国に住んでる妹とこんなに長く一緒にいることが本当不思議でしたが、お陰で沢山、いろんな話が出来ましたし、実家の整理も出来ました。妹はハワイでも家庭菜園をしているので、母が作っていた畑を整理したり、さつまいもを収穫したり、草刈機で家の周りの草刈りしたり、もう何でも出来る格好良い存在でした。ハワイに行って本当に逞しくなったんだな〜と感心するばかりでした。
そんな二人の話題の一つが、この家(実家)をどうするか?将来的もそうだけど、母が施設に入ったら空き家になってしまう。自分としてはこの家を出て約40年、たまに帰ってくる母の家と言った感じになっていました。自分が使っていた部屋はまだありますが、母の私物が置いてあり、もう自分の部屋と言った感じでもなくなっています。私は誰も住まなくなったら売却するしかないのかなと考えていました。と言うのもここ一年以上糸島で住居を探していたので、自分としては次に住むのは糸島だと決めていました。しかし糸島の物件探しは実際苦戦していました。中古戸建てと賃貸の両方探していましたが、中古住宅は値段や条件が合わなかったり、賃貸の方は一人暮らしには貸したくないとの理由で断られたり、ずっと上手くいかないままでした。
そんな話も知っている妹が、唐突に、「お兄ちゃんがここ住めば?」って言って来たんです。「私もおばちゃん達もこの家があると寝泊まりできるから助かるよ」、って言うんです。全く考えたことはないことはなかったんですが、ここに住むメリットが全く感じられませんでした。
その場では返事を何となく濁しました。確かにそれが一番母が喜ぶことだし、死んだ父も同じだと思いました。それから少しずつ、自分がここに住んだら?とイメージするようになり、リフォームして自分が住みやすくすれば良いんじゃないかな?と思うようになりました。
それを妹に伝えると、「そうだよ、好きなようにリフォームしなよ。ただ私の泊まれる部屋は作っておいてね」って答えが帰って来ました、入院中の母にも実家をリフォームして自分が住みたいから、リフォームして良い?って筆談で伝えたら、ニコッとして「嬉しか〜」って言ったように聞こえました。
リフォームの話まで書くと長くなりそうなので、それは別途書こうと思います。
それで話を転院先の病院での母の様子に戻します。
転院後直ぐに点滴が再開されました。今回は鼠蹊部からの点滴です。食事はなくなり、栄養分は全て点滴です。酸素は相変わらず吸引していますが、酸素量が以前よりは減りました。鼻から吸引しますが、無意識にチューブを抜いてしまうので、母はたまにミトンのお手手になっていました。しばらくそう言う状態が続いて、手足のむくみが取れ、苦しそうなゼーゼーと言う呼吸も静かに楽な感じになりました。そして転院して1ヶ月が過ぎ、容態も落ち着いたと言うことで、今までの病棟から別の階の回復病棟に移動になりました。少しずつですが、顔の色艶も良くなって来たように感じます。
そして今日、数日ぶりに面会に行ったら、鼻についていた酸素チューブがなくなっていました。酸素なしでも呼吸ができるように回復して来ました。目に見えて回復しているのが見れて本当嬉しかったです。このまま元気になって退院できると良いなとここからそう思います。
私もヒーラーの端くれですので、遠隔でヒーリングを何度かしていました。もちろんEQTもやっております。
妹も1ヶ月一緒にいた間にレイキの伝授をして、彼女もハワイから母に遠隔レイキをしていたと思います。もちろん母の治癒力が大きかったと思いますが、こうやって子供達も母にヒーリングエネルギーを送っていたこともその助けになったのではないかと思います。
長くなりましたが、今年の夏から今日の冬至の日までの近況になります。
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