去る2月14日午後、母が85歳の生涯を閉じました。
昨年の8月に熱中症で倒れ、入院して6ヶ月後のことでした。
熱中症で倒れていたのを発見し救急車で搬送された時は、あと数時間遅かったら手遅れだったと言われ、その時は幸運だと感じていました。ただその後の医師の検査結果の説明で、いつかは永遠の別れは覚悟しなければいけないとも感じていました。
入院中は容態が悪くなることもありましたが、安定した状態も続いていたので、どうにか退院できるのでは?と信じたい自分もいました。一時期は車椅子で病室から出て自由に動き回れていて、面会に行くとナースステーションで過ごしているのを見かけることも多々ありました。その頃は食欲もあり、みかんの差し入れもよく食べていました。ですが入院3ヶ月になるころから容態は悪くなり寝たきりになり、食事も点滴になりました。
その頃、担当医に母の容態が悪くなったので会わせたい人に早く連絡して下さいと電話がありました。それで妹、孫、母の兄弟、親戚が見舞いに集まった時もありました。運良くその時は回復し、その後の容態も安定していました。
それからは悪くなったり、安定したりでした。体重は減る一方で衰えていっているが良く分かるようになりました。ただ意識はあり、面会に行くと目を合わせてくれ、手を握ると握り返してくれていました。
そして、2月13日についに病院から容態が急変したのですぐに来て下さいと連絡がありました。すぐに病院に行き声を掛けたところ、目を少し開けて私が来たのが分かったようでした。しばらくいると一旦落ち着いたようだったので、また明日来ますと病室を後にしました。しかし翌朝も病院からの連絡があり駆けつけました。血圧、血中酸素、心拍数が上下するのを繰り返し、悪くなる間隔が次第に早くなり、午後2時半に静かに息を引き取りました。母の手を握り、何度も呼びかけたのですが、反応はありませんでした。
亡くなった後、葬儀屋を手配し、通夜、葬儀の日にちを決め、一旦実家に母の遺体と戻りました。半年ぶりに自宅に戻れた母は嬉しかったと思います。そして一晩一緒に過ごしました。夜中に何度も母の寝ている方を見て、息をしてるんじゃないか、起きてくれるんじゃないか?と思いました。まだ亡くなったと言う事実を受け入れられていなかったのかも知れません。
翌朝に死に化粧をしてもらい、通夜のために斎場に移動しました。そして翌々日の葬儀を終え、そのまま火葬場へ向かいました。葬儀には孫、親戚、母の友人の方々も駆けつけてくれて会葬いただきました。母も仲良くしていた沢山の人たちの顔を見れて喜んでいたと思います。
今頃は26年前に他界した父、そしてご先祖様に温かく迎えられていると思います。
死は誰しも必ず訪れるものであり、決して終わりでないと理解していたつもりでしたが、やはり目の前から肉親の肉体が亡くなることは悲しみしかありません。もう顔を見て、言葉を交わしたり、その体温を感じたり、一緒にビールを飲むことは出来ません。母の愛飲していたビールもまだ冷蔵庫に冷えています。実家には母の私物ももちろん沢山あり、整理しながら一つ一つに母を感じながら涙が出ます。生前母と決めた家のリフォームのためにも不要なものを捨てる必要があったのですが、母が生きているのと亡くなってからでは家の中の片付けも全然意味合いが変わって、今は全て母の遺品になりました。
母の思い出に浸りつつも残された我々はしっかり生きていかなければなりません。それが母を一番安心させることだと感じています。
母の死をきっかけに、納骨堂に安置していた父の遺骨を、母の遺骨と一緒に実家の近くの樹木葬の墓地に安置することにしました。山の中腹にあるその墓地から二人仲良く私達を見守ってくれるでしょう。

2024年春 近所のお宮にて
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